東京大学史料編纂所

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正倉院文書調査

 昭和五十七年度の正倉院文書調査は、十月十八日より二十三日までの六日間、例年の如く正倉院事務所(奈良市雑司町)に出張し、同修理室に於て原本調査を行なった。五十六年度より正集以下の既調査の諸巻の調査結果の整理を始め、正倉院文書の目録を、特に接続・表裏関係等に留意しつつ作成することとし、そのための作業を集中的に行なうことにした。目録原稿と原本との対校を、五十六年度は正集五・六・七・八・十三・十四・十五・十六・十八・二十六・二十八・二十九・三十・三十五・三十六・三十七・四十二・四十三の計二十巻分について行なったが、今年度は、正集一・二・三・四・九・十二・二十二・二十三・二十四・二十五・三十四・四十・四十一、続修六・十・十一・十二の計十七巻について行なった。二か年で計三十七巻分の目録原稿の整理が済んだわけである。
○料紙の使用法による天平二年越前国正税帳の復原
1、五十六年度の目録原稿の検討の際に、石上は、従来からの原本調査の成果に基づいて、正集二十七巻の天平二年越前国正税帳の断簡配列の復原について再考してみた。正税帳の復原研究は一般に次のように行なわれている。
 (一)断簡の接続
 (二)断簡の配列 郡司署判・記載事項・数値から、また裏文書から各断簡が首部
・尾部またはどの郡に所属するかを推定する。郡の記載順序により各断簡を配列する。
 (三)欠失部の記載事項・数値の推測・推計
 右のような復原研究は、穂井田忠友の正集編成、『大日本古文書』一・二の編纂以降、大きな成果を生んできた。ところで、ここで今試みるのは、″紙の使い方″、すなわち料紙の使用方法、具体的には完形の一紙の行数・字詰めから接続・配列を復原する方法である。八世紀の戸籍・計帳(手実は別)・正税帳等の紙の寸法は、当時の一般の紙の寸法と同じで、凡そ縦二八〜二九�、横五五〜五八�で、縦横比は一対二である。界幅は二�前後である。各文書毎に料紙の紙質と寸法、一紙の行数、毎行の字詰めがほぼ統一されていることは写経の場合と同じである。したがって、一つの文書が完形の一紙を貼りついで成り立っているとすれば、残存の行数から欠失の行数は計算により推計できる(但し、正税帳の中には、誤記・誤写訂正のために多量の擦り消しをしたり、一紙全体または一部分を切り捨てたりして作成時に手を入れている場合が少なからずある。それらの事例については別の機会にまとめて報告する)。また、この方法を応用すれば、漆紙文書のような断片的なものでも、完形の一紙のどの部分に相当するかを推測できる場合もある。
2、天平二年越前国正税帳は、首部と七郡の全てが断簡を有しており、また、官稲混合前の正税帳で記載事項が少なく、欠失部分の推計を行ないやすいので、右の方法による事例研究の素材として取り上げたい。天平二年越前国正税帳の断簡配列は、『大日本古文書』・亀田隆之「古代水利問題の一考察」(『日本古代用水史の研究』)、早川庄八「正税帳覚書」(『続日本紀研究』五—三)・舟尾好正「越前国正税帳の断簡整理をめぐって」(『日本歴史』二六四)・飯田瑞穂「「越前国正税帳」の倉・屋数の復原」(同二七七)の諸説がある。断簡は、『大日本古文書』の配列順にA〜Fの記号で表示すれば、早川・舟尾両氏の研究により、次の如き配列となる。

 F 首部中
 A 首部尾
   敦賀郡首
 B 敦賀郡尾
   丹生郡完存
   足羽郡首
 C 大野郡尾
   坂井郡首
 D 坂井郡尾
   江沼郡完存
   加賀郡首
 E 加賀郡尾
   尾部完存
となる。そして、各断簡の所収の巻は、
 F 続々修三十五帙六巻二十三裏
 A 正集二十七巻二表
 B 正集二十七巻三���(B���)
 C 続々修十九帙八巻二十五裏
 D 正集二十七巻四���(D���)
 E 正集二十七巻五��(E��)
で、他にB�の一部と重複する次の一断簡がある(早川前掲論文、一〜二頁)。
 B´ 正集二十七巻六
 そして、各断簡の行数は、左右の不完全な行も含めて次の如くである。

 F 三行。写真版では右端一行(半存)が継目下で見えない。左右両端切断。
 A 十二行(首部尾十行、敦賀郡首二行)。右端一行(半存)は墨痕みえず。左右両端切断。
 B� 十七行(敦賀郡尾七行、丹生郡首十行)。右端切断、左端はB�との原継目(継目裏書あり)。
 B� 二十六行(丹生郡尾二十二行、足羽郡首四行)。B�は完形一紙で二十六行、五七・二�(右端糊代を除く)、右端はB�との原継目。左端はB�との原継目(継目裏書あり)右側切断の後、正集編成時につき合せ接続。
 B� 七行(足羽郡首)。B�のつづき。右端はB�との原継目右側切断の後、正集編成時につき合せ接続。左端は切断。
 C 十五行(大野郡尾五行、坂井郡首十行)。右端は原継目左側で切断(継目裏書僅存)、左端切断。
 D� 六行(坂井郡尾)。D�に続く。右端切断で左端一行半存。左端はD�との原継目(継目裏書あり)。
 D� 二十七行(坂井郡尾三行、江沼郡首二十四行)。右端はD�との原継目、左端はD�との原継目(継目裏書あり)。完形一紙で二十七行、五七・五�(右端糊代を除く)。
 D� 十五行(江沼郡尾九行、加賀郡首六行)。右端はD�との原継目。左端は切断。左端一行は半存。
 E� 十五行(加賀郡尾十三行、尾部二行)。右端は原継目左側切断(継目裏書半存)。左端は切断の上、正集編成の際E�とつき合せ接続。
 E� 九行(尾部五行(国司署判は二行分であるが三行にまたがる)、空白四行)。右端は切断の上、正集編成の際にE�とつき合せ接続。九行目は四分の一存。左端は切断。E�とE�合せて二十四行存し、軸付部分の二〜三(九行目の四分の三を別として)を切断している(完形の一紙は二十六行(B�)または二十七行(D�))。E�、E�の残存部の長さは、下辺で五一・六�(右端糊代含む)、完形一紙の長さをD�と同じ五七・九�(右端糊代を含む)とすると、切断分六・三�は九行目(二十四行目)の残り四分の三と二十五行目を引くと残り二・四五�となり、この一紙は二十六行分であったと推定される。
 完形の一紙は、前述の如くB�とD�で、計測の誤差を考慮すればほぼ同じ長さと考えてよい。一方、一紙行数は二十六行と二十七行だが、界幅の二・一〜二・二�は、各行〇・一�の差で一紙では一行分となる。以下においては、断簡は一紙行数を二十七行と仮定し、二十六行の場合も併記して検討してみよう。
 次に〔天平二年越前国正税帳断簡配列復原図〕を掲げる。
 一郡全体が残る場合の行数は、丹生郡が三十二行、江沼郡が三十三行である。
 加賀郡は第十紙のD�に続く欠失部分の十二〜十一行をD�の六行とE�の十三行と合計して、三十一行または三十行となる。本報告では論述が長くなるので、首部・各郡の記載事項及び所要行数の検討については触れないが、加賀郡の欠失部には最低十一項目十一行が入り(利・并・古稲・輸田租・食封・公租・納当郡分・納丹生郡分・振入・納定・糒の十一項目)、右の欠失部の推定行数と一致する。したがって、第九紙から第十一紙には江沼郡・加賀郡・尾部の記載がぴったりと納まる。
 敦賀郡は、欠失部には最低十五項目十五行(頴稲・雑用・春米・残・出挙・身死人・残・利・并・古稲・輸田租・食封・公租・振入・納定の十五項目)が入り、最抵で残存部二行・七行と合せて二十四行となる。敦賀郡の首部の含まれる断簡Aが第二紙のどの部分かにより、首部の行数と敦賀郡の行数が変動する。断簡Aは両端切断でどの部分かの手掛りがない。首部は、第一紙の巻首の欠失部に端の空行・文書名・定大穀の三項目三行が入るとすると(端の空行がなければ二項目二行)、断簡Fに続く欠失部は二十二行〜二十一行となる。この欠失部と第二紙の断簡Aの前の欠失部が、各郡の項目のうちの首部欠失部に相当する二十項目二十行を含むことになる。首部の項目数は最低で三十項目三十四行であり、敦賀郡や大野郡や坂井郡の欠失部に存在したであろう項目数をたせば、三十四行以上になることは確実である。断簡Aの右端が第二紙の右端の原継目左側切断に相当するとしても(半存の断簡A第一行が、第二紙第一行に当る場合)、首部三十六行は確保されるが、項目数の増加を考えれば、第二紙における断簡Aの位置は左の方に動き、敦賀郡の行数が減るはずである。したがって、第一・二・三紙は、首部と敦賀郡を納めるのに適当な長さであると考えられる。
img 140-141
 第五紙のB�に続く欠失部、第六紙、断簡Cの第七紙のはじめの五行には早川・舟尾氏の考証によれば足羽郡と大野郡の二郡が入ることになる。この部分は合せて六十三行〜六十一行で、一郡三十行前後という他郡の例からみれば、ちょうど二郡が入る分量である。 以上の如く、第一紙より第七紙までは、首部と敦賀郡・丹生郡・足羽郡・大野郡の記載がぴったりと納まるのであり、また第九紙より第十一紙までも江沼郡・加賀郡・尾部の記載がぴったりと納まるのである。しかしながら、第七紙と第八紙の間の接続には大きな問題がある。坂井郡の記載は、第七紙は欠失部を含めて二十二行〜二十一行、第八紙のD�は六行、第九紙のD�は三行で、第八紙の欠失部二十一行〜二十行を入れると、合せて五十二行〜五十行となってしまい、首部の推定最大行数四十八行よりも長くなってしまう。そこで考えられるのはつぎの五つの場合である。(1)坂井郡の記載五十二行〜五十行が他部の一・五〜一・六倍の長さになることを認めるとする場合。この場合は、約二十行分の増加分を項目数の増大と考えて、首部に約二十行を加えねばならなくなる。もう一紙首部に増えるかどうかは敦賀郡の行数との関係がありむずかしい。(2)断簡Cの郡司署判が大野郡司のものでなく、『大日本古文書』や亀田氏の如く足羽郡司のものであるとし、大野郡は坂井郡の次に記されているとする場合。この場合は、舟尾氏が解明されたCとD1の数値の対応の事実(一一六〜一一七頁)に反することになるので、成り立たない。(3)第一紙より第七紙までと、第八紙より第十一紙までは別本であるとする場合。早川氏が指摘されたようにB´断簡の存在は、天平二年越前国正税帳は二本あることを示しているのだが、このことを考えあわせると、第八紙より第十一紙はB´断簡の属していた別本であり、第一紙から第七紙までとは料紙の割り付けにどこかで違いが生じていたことになる。(4)第七紙の欠失部から第八紙の欠失部にかけての部分に、書き損じ部分の切り捨てなどにより切り縮めが約二十行分あった場合。正税帳にはしばしば擦り消しや切り捨て継ぎ直しによる訂正が施されているが、ちょうどこの部分にそのような細工が施されていた場合である。(5)第七紙と第八紙は別紙でなく同紙であり、断簡Cと断簡D�は五〜六行の欠失部を挾んで同一料紙の右側と左側であった場合。この場合、坂井郡の記載は二十五行〜二十四行となるが、欠失部には最低でも八項目八行が記されていたはずであるから(利・并・古稲・輸田租・食封・公租・振入・納定の八項目)、六行〜五行の欠失行数では入りきらず、成り立たない。
 以上の五つの場合、成立しないのは(2)・(5)であり、成立の可能性があるのは(1)・(3)・(4)だが、約二十項目も記載事項が増えるという(1)は考えにくく、結局、(3)の二本に分けて考える説か、(4)の切り縮めがあったとの説が妥当であろうということになる。(3)にしても、二本の間で料紙の割り付けに違いがあったことを想定しなければならならず、その原因は別本における一紙行数が全て二十六行であったとしての第一紙から第八紙まの七行分(第四紙は二十六行)のおいこみだけでは説明がつかず、やはりどこかで別本にも切り縮めがあったと考えねばならない点で、(4)と同じ発想なのである。
 天平二年越前国正税帳の復原については、�料紙の使用法による復原�の方法により、従来の復原で確認された部分をより確実に論証することができ、その有効性を確認したが、同時に坂井郡の記載が他郡の一・五〜一・六倍の長さになるという問題も明らかにした。この問題については、裏文書の問題や、他の正税帳類における�料紙の使用法による復原�の方法の有効性の追及とあわせて今後の課題としたい。
                  (土田直鎭・皆川完一・石上英一・加藤友康)


『東京大学史料編纂所報』第18号p.137